オッコトヌシになった宮崎駿

君たちはどう生きるかを見て

 

 

ああ、宮崎駿はオッコトヌシになってしまったんだなぁと思った。

 

幼少期にトトロやもののけ姫

小学生の頃に千と千尋を見させてもらって育ててもらいました。

 

勝手に自然だとか、人の営みだとか、世にある素朴な美しさや尊さや恐ろしさを教えてくれる物識りのおじいちゃん先生だと思っていた。

 

違かった。

おじいちゃんは芸術家で

そういったものを残したくて 自分のために 世界に確かにある事を確認する為に 作品という形にしていたんですね。

 

人を料理して食べてしまう、人の作品を勝手に弄り回す、変わり映えのしないオウムだらけの世界。

 

オウムって私達のことだよね

何も生み出さず、出てきたものを食べる消費者

 

君たちはどう生きるか、の君の中に我々のようなオウムはいない。

 

君、とは主人公のような作る側の心を、生きる側の心を持った人のことですよね。

 

お母さんをきちんと慈しめるような貴族の君。

母の死に目に泣いてしまう人の心をもった君。

凛々しい心で進む君。

 

勝手に先生だと思っていたけれど、

最後の作品は生徒に向けたものでも

オウムに向けたものでもなかった

 

きっといるかもしれない

自分をもっていきる君

 

そのこたちを見つめて、客席に座っているオウムは通り越していた。

世を儚んで呪っている2時間を見た。

 

芸術家が最後10年をかけてくつりあげた映像は、世への怨みだった

 

 

嫌味でオウムにもわかる比喩を、人と時間を10年もかけて織り上げる作品なんて、呪いだよ。

オッコトヌシになってしまったとそれでおもうのです

 

先生じゃなくって、最後は人として、言いたい事を残すことにしたんですね

 

でも、それで良かったのかな

 

文章でよかったのではないかな

 

あんな美しい作品たちを作れる腕を使ってわざわざ映像で残すなんて。

 

映像にドロドロをかけないでもいいじゃないか。

 

オッコトヌシさま。

 

大人が辛いところを見せるなんて子供への虐待だよ。

 

私は、先生でいて欲しかった。

 

人間になるなら、文章で残して欲しかった。